「自分」という存在

今思っていること。
それと同じようなことを誰か別の人も思っています。
親しい人かもしれないし、見ず知らずの人かもしれません。

何かを思うとき、それは自分が思っているんだと考えます。
ではその「自分」という存在はどこにいるのでしょう?
「ここに居ますよ」と身体を指差すかもしれませんね。それは肉体ですが、自分だと認識しているものと本当に同一でしょうか?

ユングもフロイトもその辺りを探求していましたが、それぞれの説があるだけで答えに到達していません。サグラダファミリアが未完成なのと同じように、後の世代の人たちに大切なことを示しているように思います。

「きちんとしなさい!」「しっかりしなきゃ!」と、正しい(であろう)答えを見つける事ばかり熱心にしてきた私たちの世界には、抗菌や滅菌が過ぎて柔軟な対応ができない身体を持つ環境ができてしまっていますね。

あなたが思っていることは、誰かも思っています。
「個人的に受け止めない」というフレーズを学んだとき、分かったつもりになっていましたが、さっぱり分かっていなかったのだなぁと思います。
「自分」という存在を限定すると、自らの芽吹きに制限をかけてしまうんだなぁと今は思います。


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